このページの本文へ移動

TOKYOイチオシナビ 見つけて活かす東京の地域資源

文字サイズ

 地域資源紹介

波浮港見晴台
波浮港見晴台

波浮港

■指定されている場所:大島町

伊豆大島の南東にある「波浮の港」は、838年の火山噴火でできた火口に雨水がたまってできた火口湖でした。この池は「波浮の池」と呼ばれました。1703年の元禄大地震(関東大地震に匹敵する大地震)とその直後に生じた津波のために、波浮の池は決壊して海と繋がりましたが、満潮時しか船が中に入ることはできませんでした。
1790年、医師であり本草学者の田村元長は、幕府から伊豆諸島の薬草採集・栽培適地調査を命ぜられ、その案内役となったのが、伊豆諸島と取引していた商人・秋広平六でした。元長一行が伊豆大島の波浮の池を眺めた際に、平六はここが良港になる可能性を見て取ります。後に平六は、伊豆代官に波浮の池の拡張工事や無人島探索を願い出ます。無人島探索は受け付けられませんでしたが、波浮の池の拡張工事は田村玄長らの助力の末に、平六が工事の一式引受人を任されました。総工費980両、延べ人数12,000人、工事期間5カ月という大工事の末に、1800年、「波浮の港」が開港しました。港は南北430m、東西280m、深さ中心部で約17mというものです。平六は他にも、大島や八丈島、御蔵島で炭焼き技術を指導したり、利島に桜や椿を植樹したりと、島の産業振興に大きく貢献しました。
波浮港の西側の高台に「名勝波浮港見晴台(みはらしだい)」があり、そこから波浮港全体が見渡せます。港の周囲の山がすり鉢状になっていて、かつては噴火口だったことがよく理解できます。この見晴台には、波浮港を見下ろした姿の「秋広平六翁之像」が置かれています。

明治、大正そして昭和初期を通じ、遠洋漁業の中継港となった波浮の港は、大いににぎわいました。最盛期の波浮港には、網元の屋敷や蔵、旅館や飲み屋、お茶屋に加え、映画館が2軒、公衆浴場も2軒建っていました。また台風が近づくと、波浮港は避難してきた船が四重、五重に停泊して港を漁船が埋め尽くす姿が見られました。
さらには、昭和3年、野口雨情作詞・中山晋平作曲による佐藤千夜子の『波浮の港』の歌が大ヒットし、観光客は急増しました。

波浮港には、与謝野鉄幹・晶子や野口雨情、林芙美子、幸田露伴などの歌人や詩人、作家たちが訪れ、波浮港をテーマにした作品を残しました。波浮港の周囲を巡る「文学の散歩道」には、各所に「歴史・文学の碑」が立っていて、波浮港をテーマにした歌や詩を読むことができます。
波浮港にある「港屋旅館」は、川端康成の小説『伊豆の踊り子』の舞台の一つとなりました。モデルとなった旅芸人一座は、ここに滞在する間は「港屋旅館」で芸を見せたり、近くの「甚の丸邸」の座敷に呼ばれました。
かつての港屋旅館は、現在では「踊り子の里資料館」となっています(入館料は無料)。木造3階建の建物は、建設当時は日本最大のものでした。2階の宴会場では、ボタンを押すと笛や三味線の音が流れ、踊り子の人形が動き出します。
港屋旅館周辺は、昔ながらの木造建築が並び、昭和の雰囲気を味わうことのできる街並みとなっています。

波浮港の東には「竜王崎」と呼ばれる岬があります。同じ場所から朝日と夕日が見える場所で、海に囲まれた日本の中でも極めて珍しい存在です。この上には竜王崎灯台が、船の安全な航行のために夜は四方に光を放っています。
竜王崎は第二次世界大戦中、日本陸軍の監視所となりました。兵役年齢に満たない15〜19歳の青少年たちも監視の訓練を受け、任務に従事していました。日本に初めて飛来したB29爆撃機の一番機を発見したのは島田少年によるものと伝えられています。この付近には、防空壕、塹壕などの戦争遺跡が多数残っています。

文学の碑
文学の碑

現在では、波浮港は閑静な漁港となっていますが、自然の景観と共に様々な歴史を知ることのできる貴重なスポットとなっています。

一覧はこちら

ページ
トップへ
戻る