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 地域資源紹介

皮革製品

皮革製品

■指定されている場所:台東区、墨田区、荒川区、足立区、葛飾区

「皮革製品」という言葉の中の「皮」と「革」は、どちらも訓読みが「かわ」です。「皮(原皮)」は、まだ加工していない状態のものを指し、「革」はその「皮」をなめしたもの(なめし革)を指します。「なめす」ことによって、革は腐敗しにくくなり、なめらかさや弾力性、そして耐熱性が増します。皮革産業は大きく分類すると、皮をなめす「なめし革製造業」と、革から靴、鞄、ハンドバッグ、ベルト、財布、帽子など多岐にわたる製品を作り出す「革製品製造業」とに分かれます。日本国内での市場占有率を見ると、なめし革製造では、東京都は国内の約14%を、革製品履物では約28%を、鞄製造では約16%を、袋物(ふくろもの、ハンドバッグや小物入れのこと)では約44%を占めています(平成23年「東京の工業」における出荷額の比率)。
「なめし革製造」は墨田区に東京都内の工場の約71%が集中しており、葛飾区、荒川区が続いています。革製品履物では台東区が約42%を占めています。また、東京都で作られる革製品の種類では、靴が最も出荷額が多く、次いで袋物となっています(「平成26年「東京の工業」に基づく)。このように、「なめし革製造業」「革製品製造業」は、東京都における重要な 地域資源となっています。また、墨田区・台東区には、皮革製造者だけでなく、革、靴の卸問屋街も集中しています。

革製履物製造業が国内有数の規模で集積している台東区では、製靴に関連した材料の仕入れ・製造・流通のネットワークが形成されており、メイド・イン・トウキョウの靴作りが盛んです。台東区には、日本で唯一の製靴の公共職業訓練校である「東京都立城東職業能力開発センター台東分校」が立地し、次世代に靴作りの技術を伝えています。加えて、日本で唯一の靴の公的試験研究機関である「東京都立皮革技術センター台東支所」があり、企業等への技術支援を行っています。

墨田区の「ピッグスキン(豚革)」は東京の特産品であり、国内のみならず海外にも輸出されています。ピッグスキンには、通気性の良さや摩擦に強いなどの長所があります。表面(銀面という)の凹凸が大きく、3個1組の毛穴があるのが特徴です。他の種類の原皮は輸入に大きく依存していますが、ピッグスキンは、国内で自給できる唯一の革素材です。豚皮は、海外では中華料理をはじめ食品素材として肉と共に流通してしまいますが、日本では豚の皮をあまり食用にしないため、革製品に有効活用されています。

革の鞄(かばん)の歴史について見ると、江戸時代以前から、「胴乱(どうらん)」と呼ばれる薬や印、または鉄砲の弾丸などを入れるための物入れが、主に革で作られていました。形状は、腰に提げるものや、手提げ、肩に掛けるものもありました。
明治41年頃より「手箱」と呼ばれるタイプの革の鞄が作られるようになりました。これは、今日の「アタッシュケース」の前身となりました。
大正12年頃、洋装の皮革製のバッグが進出し、昭和2年頃に初めて「ハンドバッグ」と呼ばれるようになりました。女性の社会進出と共に財布、カギ、ハンカチ、化粧品などを入れるアクセサリーとして流行しました。
大正13年頃から、「ボストンバッグ」が作られるようになります。アメリカのボストン大学の学生が使用していたところから名付けられたと言われています。
昭和26年頃、アメリカの国務長官ダレス氏が来日した時に持っていた鞄が、「ダレスバッグ」と名づけられて広まりました。
「ランドセル」は、陸軍将校用背嚢を改良したものです。その由来は、大正天皇の学習院入学祝いとして当時の総理大臣・伊藤博文より献上されたと言われています。それが富裕層に流行し、ランドセルとして普及しました。オランダ語で「背嚢、背負い鞄」を意味する ransel ランセルがなまったものと言われています。
台東区駒形にある「世界のカバン博物館」(入館無料)には、過去から現在に至るまでの様々なタイプの鞄が展示されていてその歴史を知ることができます。

皮革製品

日本の革ベルトの歴史は古く、正倉院の御物(ぎょぶつ)の中にも、宝石で装飾された豪華な革のベルトがあります。明治時代になると、軍服にベルトが必要になりますが、まだ一般には広がりませんでした。戦後、洋服が普及すると共に、男女ともに身に付けるようになります。革のベルトも台東区で多く生産されています。

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