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 地域資源紹介

アメリカ芋、ムラサキ芋

アメリカ芋、ムラサキ芋

■指定されている場所: 新島村

サツマイモというと皮の色が紫色で細長いタイプのものが一般的ですが、アメリカ芋は、皮が白く丸みを帯びており、じゃがいものような外見の、甘みの強いさつまいもです。新島ではアメリカ芋が特産品として知られ、新島で「いも」といえば、このアメリカ芋のことを指すほどです。アメリカ芋は、七福(しちふく)と呼ばれるサツマイモの品種に対する伊豆諸島での呼び方です。現在、「あめりか芋」というひらがな表記で販売されています。








日本で広まった七福

日本にはさまざまなサツマイモの品種が外国から伝わってきましたが、七福もその一つです。七福はイタリアで栽培されていたサツマイモの一品種でしたが、1830 年代にアメリカに伝わりました。1900(明治33)年頃、広島県安芸郡出身の久保田勇次郎氏がアメリカから日本に導入しました。「七福」の名の由来は、(1)風土を選ばず作付けできる、(2)作りやすく不作が少ない、(3)貯蔵性が良い、(4)食味が良いという4点に加えて、(5)イタリア

七福

から(6)アメリカに伝わり、さらに(7)日本に伝来したことから、七福と名付けられました。七福は戦前や戦時中は日本各地で広く栽培されましたが、戦後は収量の多い他の品種が育てられるようになりました。

 



新島の風土に適したアメリカ芋

アメリカ芋の畑
アメリカ芋の畑(新島村ふれあい農園)

アメリカ芋は、養分が少なく水はけの良い土でよく育ちます。新島は砂地で覆われていて稲作には向いていませんが、アメリカ芋との相性は良く、生育に向いています。島民は、海岸に打ち上げられた海草(地元では「ムク」という)を集め、畑のウネの下に施してミネラル分を補いました。 さらに、アメリカ芋は長期間貯蔵が可能なことも新島に適していました。しかも収穫直後のアメリカ芋の肉質は半粉質ですが、貯蔵するにつれて粘質になり、甘みを増します。かつては各家庭に「芋穴」が床下につくられ、アメリカ芋を貯蔵していました。今でも芋穴を使用している家もあります。


アメリカ芋の焼酎


七福嶋自慢
株式会社宮原の『七福嶋自慢』
(あめりか芋焼酎)

1926(大正15)年創業の新島唯一の酒造所である株式会社宮原(旧、新島酒造)は戦後、島内で収穫された原料を使った芋焼酎「嶋自慢」の製造を開始しましたが、芋の生産が減ったことや、麦焼酎人気が高くなったため芋焼酎から麦焼酎の製造に切り替えました。しかし、2003(平成15)年から、アメリカ芋を使った芋焼酎を復活させました。アメリカ芋はその当時、自分の家で使う分や島外の親類・知人への贈答用くらいの量しか農家で栽培されておらず、製造のための原料の確保に苦労をしたといいます。都立新島高校では、3年生の選択授業で

都立新島高校の生徒による収穫風景
都立新島高校の生徒による収穫風景

ある「新島研究」の一環としてアメリカ芋の栽培に取り組んでいます。生徒たちが育て、収穫したアメリカ芋を用いて株式会社宮原で焼酎を造り、2年後の成人式で各自に芋焼酎が贈られるのが恒例となっています。

 


新島のさつまいもの歴史


新島の薩摩芋畑跡の説明板
新島の薩摩芋畑跡の説明板
(現、新島村ふれあい農園)

アメリカ芋が新島に伝わるよりもはるか前の江戸時代から、新島ではサツマイモが栽培されていました。8 代将軍徳川吉宗は、過去の飢饉から教訓を学び、米だけに依存しないように、他の穀物の栽培を奨励しました。そこで、サツマイモの試作を命じられた儒学者・蘭学者の青木昆陽(あおき こんよう)は、日本各地にサツマイモを広めます(その働きのため昆陽は甘藷(かんしょ)先生の名で知られるようになりました)。1735(享保20)年に、昆陽は新島へも種芋5 個とともに栽培法をまとめた書物を送りました。それまでは干ばつの年には島に餓死者が出ることもありましたが、サツマイモの普及により食料事情は改善し、不作の時でも餓死者が出ることがなくなりました。この時、新島に伝えられたのは、皮が赤紫色のアカイモと呼ばれる品種でした。新島では現在、アメリカに比べると少量ですが、ムラサキ芋(品種はベニアズマ)も生産されています。

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