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地域産業資源紹介


椿

■指定されている場所:大島町、利島村

椿は、艶やかな花が特徴の日本原産の常緑樹。椿は観賞用だけではなく、その種子からは椿油が得られます。椿油は、古来より髪油やあかりの油として利用されてきました。
伊豆大島にいつ、どのように椿が入ってきたのかは正確に知られていません。とはいえ、昭和53年の伊豆大島近海地震の際に、伊豆大島の下高洞遺跡の崩落した縄文中期から後期にかけての地層から椿の葉の化石が発見されたため、縄文時代という古い時代から伊豆大島には椿が育っていたという証拠が現れました(都立大島公園の椿資料館に展示されています)。
伊豆諸島では、椿から採れる椿油が、利島と大島で生産されています。蒸してから搾油する従来の方法と生搾りの新しい方法の2種類の方法で生産されています。椿油の成分の85%以上が「オレイン酸」という脂肪酸で、ヒトの肌の主成分と同じであるため、椿油が髪や肌になじみやすいと言われています。椿油は凝固点が低く凍りにくい、腐敗したり劣化しにくい、乾燥しない不乾性油であり、臭いがないといった、髪油として優れた性質を持っています。
椿の利用法は椿油だけに限りません。椿の幹や枝は椿炭(ちんたん)の材料として、椿の花びらは「花びら染め」のための染料用に、葉は釉薬のための椿灰に、そして油のしぼりかすの種子は肥料にと余すところなく使われました。椿は成長が遅い反面、肌理(きめ)は緻密で均質であり木質が堅く、磨くと光沢が出ることから、ソロバン玉、将棋の駒、食器、楽器、彫刻や木製の玩具の材料として活用されてきました。椿の木を炭にしたものは、火つきが良い上に、火持ちがよく、火の粉が飛ばず、灰も白くきれいなために、茶道では最高級の炭として愛用されてきました。こうして、椿は伊豆諸島の人々の暮らしを支える重要な資源となってきました。
椿は、花そのものだけでなく、陶器や木彫、漆工芸などのデザインとして古来から好まれてきました。椿の花は、水天宮の神紋としても有名です。

椿の遺伝子は変わりやすいため、花びらに様々な柄のものが発現しやすいと言われています。椿は園芸品種がつくりやすく、人工交配によってユキツバキとの雑種も含めると約2000種に近い園芸品種が作り出されてきました。伊豆大島に古くから自生していたのは、赤い五弁の花びらで一重のヤブツバキですが、伊豆大島でも多くの品種が生み出されてきました。椿の花の形の特徴は、花の中央にまとまって並ぶ雄しべです。遺伝的な要素以外にも、赤系の椿に現れる赤い色素が抜けた「斑入り(ふいり)」が、ウイルスが原因となっていることが知られています。ウイルスというと病気と思われがちですが、椿の花や葉の場合、病原性が弱く木の生長にはほとんど悪影響を及ぼしません。こうした模様は、遺伝で広まるのではなく、ウイルスによって広まるため、接ぎ木によっても感染することが知られています。

昭和39年に発表された、都はるみの歌謡曲「アンコ椿は恋の花」はミリオンセラーとなり、伊豆大島を代表する歌ともなっています。今も、伊豆大島では、港などでこの曲が流れているのを聞くことができます。

椿のことをカメリアと言いますが、これはツバキ属Camellia から来ています。その名は、ハプスブルグ帝国、現在のチェコ生まれのゲオルク・ヨーゼフ・カメル Georg Joseph Kamel(1661-1706)に由来します(Kamel は Camel ともつづります)。宣教師で植物学者でもあったカメルはフィリピンで椿の種を入手し、ヨーロッパに初めてツバキを学術的に紹介しました。

 


その後、ヨーロッパでは美しい色と香りの椿が流行し、社交界の女性たちは椿の花を胸に飾るようになりました。フランスの作家アレクサンドル・デュマ・フィス(1824〜1895)の『椿姫』(1848年)もそのような時代背景で書かれました。命名したのは、「分類学の父」と呼ばれる生物学者カール・フォン・リンネで、カメルに敬意を表してツバキの学名にその名を付けました。

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